古代史のページ

     〜 邪馬台国と卑弥呼の謎に迫る 〜

劉備玄徳や、諸葛孔明の活躍で人気の三国志。
その舞台となった三つの国、魏、呉、蜀。
この中の魏について書かれた史書である魏志に、古代の日本について述べられた部分があります。
これが、魏志東夷伝倭人の条、通称「魏志倭人伝」です。
これまでに数多くの学者や歴史家、研究者たちが魏志倭人伝に書かれた道筋から邪馬台国の位置を特定しようと、論戦を繰り広げててきました。
しかし、邪馬台国の論争は、未だ決着をみていません。

ここで、魏志倭人伝をみてみましょう。

魏志倭人伝(抜粋)

始度一海千餘里至對海國      (1)
南渡一海千餘里至一大國      (2)
又渡一海千餘里至末盧國      (3)
東南陸行五百里到伊都國      (4)
東南至奴國百里            (5)
東行至不彌國百里           (6)
南至投馬國水行二十日        (7)
南至邪馬壹國水行十日陸行一月  (8)

1行目〜4行目  (距離) 至 (国名)
5行目〜8行目  至 (国名) (距離)
という並びになっています。
これを日本語にすると
1行目〜4行目  (距離)で(国名)に至る。
5行目〜8行目  (国名)に至るには(距離)。
になるのではないでしょうか。
更に、4行目に使われている「到」の文字は、目的地に到着するという意味で使用される文字です。
つまり、魏からの使者が訪れたのは、伊都国までで、あとは伝聞を元に書かれたのではないかと思われるのです。
そうすると7、8行目の距離が日数で書かれているのは、使者が距離を把握できなかったからではないかと考えられます。
邪馬台国の所在地をめぐり、魏志倭人伝の記述を元に距離が違っている、方角がおかしい、という論争がみられますが、距離がいい加減であれば方角もおかしいと考えるべきでしょう。
結局、この記述から邪馬台国の位置を特定することは不可能なのです。
だからこそ長年論争が続いているにも関わらず、未だ決着をみることができないのだと思います。

それでは、邪馬台国の位置を特定することはできないのでしょうか。
私は、記紀、つまり、古事記や日本書紀の記述から古代の日本の姿が分かるのではないか、そして、そこから邪馬台国の姿も浮かび上がってくるのではないかと考えました。
まず、皇室の発祥の地はどこかという問題から考えたいと思います。
実は、私がこの文章を書くきっかけとなったのが、この問題にあります。
天皇の祖先は、九州から来たという説のほかに、大和や朝鮮半島を起源とする説があるようですが、九州の中でも日向を起源とする説は、あまり支持されていません。
記紀には、はっきりと日向と書かれているにも関わらず、それは、ありえないことだとされているようです。
高名な先生方が、口を揃えて言うのだから、そうなのだろう。
何となくそう思っていました。
ところが、その根拠を知り驚きました。
周囲を野蛮な異部族に囲まれた僻鄙の地が皇室発祥の地とは考えられないというのです。
この説を支持する人々に、聞いてみたいものです。
歴史上最大の帝国を築いたジンギスカンは周囲を野蛮な異部族に囲まれた僻鄙の地の出身ではなかったかと。
そして、これには、必然的な理由があるのです。
豊かな地と違い、辺鄙なところでは、少ない土地や物資などをめぐり争いが絶えません。
周囲を異部族に囲まれていれば、なおさらそうなります。
そして、歴史の常として戦争は戦いに慣れた軍隊のほうが強いのです。
天皇の祖先は、熊襲や隼人といった異部族との抗争の中で強力な軍隊を作り上げていったのではないでしょか。
太陽に向かうという意味を持った日向という地名から太陽神を祖先とする天皇家の出身地とされたともいわれますが、それだけの理由で、野蛮人の住む僻地を天皇家の故郷と偽ることのほうが、不自然さを感じます。
むしろ、実際に日向が天皇家の出身地だったと考えたほうが自然でしょう。
しかし、天皇家の祖先にあたる一族、いわゆる天孫族が強力な軍事力を得たからといって、それだけで日本を長期に渡り支配できたと考えているわけではありません。
ただ、軍事力が国を支配する上で最も重要な要件であることは間違いのない事実です。

海幸彦と山幸彦の物語をご存じでしょうか。
山幸彦が兄である海幸彦の釣り針をなくしたことが原因で苛められ、海神の手を借りて復讐を果たすという物語です。
この物語は、記紀に書かれているのですが、山幸彦は、神武天皇の祖父、海幸彦は隼人の祖先とされています。
これは、隼人の侵略に手を焼いていた天孫族が、海神を信仰する部族の手を借りて復讐を果たしたということを、暗示しているように思われます。
海神信仰は九州北部から瀬戸内海沿岸に多くみられますので、この辺りの部族と天孫族が同盟を結んだのではないかと考えられるのです。
この推測が当たっているならば、強力な軍事力を持つ天孫族と大陸との交流により先進の文明を持つ部族が同盟を結んだのですから、日本全土を支配することも可能だったでしょう。

日向ではなくても、皇室の起源が九州にあったという説を唱える人は数多くいます。
しかし、天孫族が交通の要衝であり豊かな土地でもある九州を捨て、何故大和を目指したのか、残念ながらその理由がはっきりしていません。
私は、ここに邪馬台国の謎を解く鍵があると思っています。
天孫族は日本を支配するだけの力を持ち、その意志もありました。
それを実現するためには、首都を制圧し、支配者を倒せばいいはずです。
当時は大陸、特に中国との交易が非常に重要でした。
日本の代表として中国と交易を行うためには、中国が日本の支配者と考えている相手を倒さなければいけません。
それでは中国は日本の支配者を誰だと思っていたのでしょうか。
その答えは、魏志倭人伝にあります。
そう、当時の中国では邪馬台国の卑弥呼を、倭の女王と考えていたのです。
つまり、中国に日本の支配権を認めさせるには邪馬台国の卑弥呼を倒すことが必要だったことになります。
日本の支配を企てる天孫族が豊かで便利な九州を捨て、大和を目指したということは、邪馬台国が大和にあったと考えることが最も自然だと思います。
倭人伝によると倭国は狗奴国と戦っていたようですが、この狗奴国が、天孫族の国なのでしょう。
卑弥呼がこの戦いによって死んだであろうことは、倭人伝からも推測されますが、卑弥呼に変わるはずの男王では、倭国を治めることができなかったようです。
倭人伝は、卑弥呼の宗女である台与を立てることにより、再び治まったとします。
しかし、独身だったはずの卑弥呼に娘がいたとも思えませんし、養女だったとしても、なぜ卑弥呼の死後すぐにあとを継がなかったのか疑問が残ります。
宗女というのは、台与が、卑弥呼の生まれ変わりを名乗ったことによる誤解ではないでしょうか。
つまり、天孫族は卑弥呼を倒したが、倭国を支配することができなかった。
それは、倭国が武力によって支配されていたのではなく、卑弥呼への信仰心によってまとめられていたからでしょう。
それに気づいた天孫族は卑弥呼の代役を立てた。
それが台与の正体です。
天孫族は、卑弥呼を殺した、或いは死に追いやったことを非難されたでしょう。
それに対して、天孫族は卑弥呼の死の責任を卑弥呼の弟に負わせたのだと思います。
更に、天孫族こそが卑弥呼の正当な後継者だとしました。
私は、卑弥呼がアマテラス(天照大神)のモデルだったと考えていますが、日本神話の原型は、このような事実を元に作られたのではないでしょうか。
ところで、アマテラスのモデルは卑弥呼だけだというわけではありません。
アマテラスが天の岩戸に隠ったという出来事を、アマテラスの死と考えれば、岩屋から出てきたアマテラスは別人だということになります。
アマテラスは弟であるスサノオ(素戔嗚尊)の乱暴が原因で岩屋に隠ったのですが、これは、卑弥呼の死の原因が弟にあることを暗示しています。
その後世界が闇に覆われたことは社会の混乱を意味し、アマテラスを岩屋から引き出すために集まった神々は卑弥呼の後継者、つまり、台与の擁立に関わった部族の長たちでしょう。
こうして、天孫族による疑似邪馬台国が誕生しました。
しかし、天孫族にとってこれは満足できる状態ではありません。
そこで、天孫族の正当性を示すために日本神話の原型が作られたのだと思います。
卑弥呼という天孫族に都合の悪い女性の存在をアマテラスに置き換え、その死の責任をアマテラスの弟に負わせることで、卑弥呼の死の責任が卑弥呼の弟にあると思わせました。
アマテラスを復活させたのは天孫族の友好部族であり、アマテラスの子孫が天孫族だとしたのです。

アマテラスの弟であるスサノオは、出雲の神の祖先だとされています。
これは、卑弥呼の一族が、出雲に追われたことを暗示しているように思えます。
卑弥呼の代役である台与を認めない人々は、これに従ったことでしょう。
天孫族にとって彼らは、目障りであるとともに、不気味な存在でした。
また、卑弥呼の権威を横取りし出雲へ追いやったという引け目も感じていたと思います。
天孫族が卑弥呼の一族に対しこういう感情を持っていたとすれば、敵対するはずの出雲の神々が日本神話で活躍したり、出雲大社が不自然に立派だったりすることの説明が付きます。
それでは、出雲に追われるまで卑弥呼の一族はどこにいたのでしょうか。
それこそが邪馬台国のあった場所ということになります。
大和の中で出雲の神と関係が深いところといえば、三輪の山でしょう。
わたしは、邪馬台国が三輪の山の麓にあったと思います。
そうすると纏向遺跡あたりが有力になります。
更に、箸墓古墳は、卑弥呼の墓所の有力な候補といえるでしょう。

わたしは、邪馬台国は三輪の山の麓にあったと考えています。
これは単なる仮説にすぎません。
しかし、ここまで述べてきたように、特に目新しい考えや突飛な説を振りかざさなくても、倭人伝や記紀を素直に読むと、ごく自然に得られる帰結だと思います。
天孫族がこのような形で日本の支配体制を確立したのであれば、当然その後の歴史にも何らかの影響があるはずです。
最も大きな点は、日本人の宗教感に与えた影響でしょう。
本来、宗教というものは、排他的なものです。
しかし、この時の天孫族は、他宗教、つまり卑弥呼に対する信仰を自らの宗教と融合させることで、支配力を強化しました。
このような過去があったからこそ仏教伝来の際、神道と共存させることが可能だったのではないでしょうか。
また、この時の卑弥呼とその一族に行った行為に対する贖罪の意識や復讐に対する恐怖、事実を知られたら信頼をなくしてしまうのではないかという心配などの複雑な感情がからみあい、自分たちが倒した相手に祟られるのではないかという考えが生まれたのではないかと思われます。
これが怨霊信仰の原点ではないでしょうか。
さらに、宗教的な権威付けなしに、武力だけで国を支配することの困難さも感じたはずです。
天皇にとって代われるほどの宗教的な権威を持つ氏族が現れなかったことが、天皇家がその後千数百年に渡って君臨してこれた理由でしょう。
実際に天皇を倒すだけの武力を持った者は、数多くいましたが、彼らが何故天皇家を倒さなかったのか、他の理由を見つけることは困難だと思います。